乾いた瞳から、それでも涙が溢れる事は無くて
私は世界に背きたくて、目を閉じた。
それでも世界は微動だにしない。
嗚呼、海よ
飲み込んでおくれ
嗚呼、海よ
飲み込んでおくれ
この、目を反らしたくなるような世界を。
そうして飲み込んでおくれ
世界に背こうとする私を。
さぁ、空が落ちてくる前に。
海へと、駆り出せ。
航海日誌の表紙に不器用に刻まれたその文字を指でなぞり 日番谷は顔を上げた。
すっと息を吸うと 最早嗅ぎ慣れた海の香りを再認識した。
にやりと笑い、看板に出るとわざとらしく小さく咳払いをした。
世界を変える呪文を、唱え上げる為に。
「次に土を踏めるかどうかは、海の女神だけが知っているンだ…!」
ニヤリと笑う男達に、同じ笑みを返した。
「遣り残した事はねぇな?!」
おおう、という歓声に反応するように、更なる大きな声で日番谷は怒鳴り上げた。
「行くぞ野郎共!錨を上げろ!」
そうして世界が変わり始める。
人の有るべき地の上に戻るのは また何ヶ月も後の事だ。
「出航だ!!」
見事なまでの男たちの咆哮と、汽笛の音が混じり合った。
ゆっくりと、されど確かに港から船が離れゆく。
こうして手にする変わりゆく世界は、確かに自分達のものだった。
各自の持ち場に意気揚々と動きだす船員を見回しながら、ふと鼻歌を耳にした。
(…この声は…。)
そう思って声の方向を探すと、予想通りに身を乗り出して海を覗き込む彼女が目に留まった。
「…落ちるぞ。」
「ふぇ?!」
びくんと肩を揺らして、雛森は勢い良く振り返った。
「び、びっくりしたぁ…。」
「驚きすぎだ。」
へろへろとその場に崩れ落ちようとする雛森を、日番谷は笑いながら支えた。
あはは、と雛森は笑い返して体制を立て直すと、また海を覗き込んだ。
「凄いですね…。飲み込まれちゃいそう。」
そう、まるで酔うかのような目で雛森は海を見つめた。
「海は、初めてか。」
そう問い掛けた日番谷の声は、酷く優しいものだった。
「はい。」
風に揺れる髪の毛を耳にかけながら、雛森は笑って返した。
日番谷はそれに静かに笑い応じた後、ふと真面目な顔に戻った。
「…君付けで敬語って、すげぇ違和感あるんだけど。」
そう言われて、雛森はきょとんとした顔をした。
「使わなくていい。気になるし。」
「え?!で、でもっ…」
それに、大して歳も変わらないだろうと日番谷は笑った。
良く笑う人だと、雛森は頭の片隅で思った。
けれども、笑うときも何をするときも、眉間の皺がずっととれないでいる事にも気が付いていた。
「命令、だ。」
そう言いながら、やはり日番谷は笑った。
渋々と雛森は肩を竦めて頷いた。
仮にも娼婦の自分が、船長に敬語を使わないとは…とは思いながらも、そこまで言われてしまうと無理して敬語を使うわけにもいかなかった。
しかしながらに、同い年ぐらいの姿の日番谷に敬語を使わないというのは其処まで難しいことでもなかった。
「…なあ。」
「う、うん?」
たどたどしいタメ語で、雛森は応じた。
「ピアス、つけてるんだな。」
唐突な質問に面くらいながらも、ええ、まぁと雛森は苦く笑った。
ふぅんと言いながら日番谷は雛森の耳へと手を伸ばした。
昔はずっとそのピアスに誰かが触れるのがイヤだったが、不思議と日番谷にされるのは気持ち悪くはなかった。
日番谷の手は角張っていて、幾つもの細かい傷が入っていたけれども、やけに綺麗だったのが雛森の中に印象的に残った。
大きな指輪は、右手も左手も薬指以外全ての指に嵌っている。
一見その長く細い指には不釣合いに感じるが、褐色の肌のせいだろうか。違和感という程の違和感はなかった。
ピアスを優しく撫でつけるその動きがくすぐったくて、雛森は止めようとした。
けれども、日番谷がそのピアスを見ながら辛辣な表情になっている事に気がついて止めようにも声が出なかった。
ちくり、と、胸が痛むのを感じた。
時は、早く過ぎ去ってと願う雛森にお構いなしに緩やかに流れた。
軽く彼が下唇を噛んだのが見えた。
遠い人を垣間見るような気分だった。
じりじりと音を立てて胸が焼けるような。
(このままじゃ、あたしがダメになる)
そんな根拠のない、それでいて確信のある警鐘が鳴り響いていた。
この指から、その視線から、今すぐに逃れないと。
ぐっと鍔を飲み込んだその時に、勢いよく甲高い人の声ではない声が青空に響いた。
「オイ、俺様ヲ差シ置イテ、女ト、イチャツクトハ、良イ度胸ジャネーカ!」
+『不死鳥の唄』+
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